etude

『母の日』

私の母はガーベラだ。 朝起きたら「おはよう」と言う。 ご飯を食べるときには「いただきます」と言う。 出掛けるときには「行ってきます」と言う。 帰ってきたら「ただいま」と言う。 眠るときには「おやすみなさい」と言う。 いつまでも美しく咲いていてく…

『四月』

藤棚が色づき始める頃になると思い出します。またこの季節が来たんだね。 賑やかな花も好きだったけれど、それより冠のように景色を飾る藤のほうが、あなたは好きでした。 ずっと見守っている、とさよならの代わりをあなたが最期に言ってからも時は進みます…

『スケッチ』

一年にたった一度、二度と来ない秋が始まる。ここでしか生まれない季節。一期一会。大切にしたい。 水曜日の朝。黒猫のカーテンを開ける。窓の外。 仰ぐ灰色の空。小雨降る。しとしと、と。水たまりがちらほら目に映る。 制服に着替えた。朝ごはんを食べた。…

『路上の十字架』

電柱の無骨さがたまらなく格好よい。 真っ直ぐに立つコンクリートの円柱、見通せぬ中は空洞。等間隔に打たれた作業用の杭、登り手は居ない。てっぺん近くの十字から双方向に各々五六本伸びるケーブル。雀が停まっていると尚よい。背景は透き通った青でない、…

『かおり』

バレエシューズが好き。お店の棚に色とりどりに並べられている、丸いつま先のぺたんこの靴。甘く光るM&M'sみたいで、手のひらに乗せたくなる。リボンが付いていると尚いい。但し、ダンスに使うのじゃなくて、外履き用の。 でも、私は背が低いくせに足ばかり…

『グラス』

目の前に水の入ったガラスのコップがある。無印良品で買った、丁度指が四本分の小さな灰色がかったものだ。 水はミネラルウォーターでも何でもない東京都の水道水。冷たそうにも温かそうにも見えない。ただひたすら混じり気のない透明な液体。 その水面は、…

『時計の針』

別れ際、あなたはそっと目線を落として溜め息をつく。 「帰りたくないけれど、帰らなきゃ」 手は握ったまま。 哀しいけれど、嬉しい。 嬉しいけれど、哀しい。

『くちづけ』

部屋に入ると、先を行く君は黒いジャケットをハンガーに掛け黒く細長いネクタイを緩め、ベッドに腰掛ける。 私は左胸にデフォルメされた髑髏の刺繍が入ったボタンダウンの白いブラウスと緑を基調としたチェックで膝丈のプリーツスカートという、学生服を意識…

『カノン』

ステンドグラスの窓から差し込む陽の光を背にして、白いドレスを着たあなたがゆっくりと手摺にやさしく手をつきながら階段を降りてくる。そして言う 「おはよう」 いつもと変わらない、でも、いつもより愛おしくなる声で僕に微笑みかける。 毎晩、一緒に眠る…

『美しい人』

今日もあの人とすれ違った。その顔を目に焼き付けたいのだけれど、出来ない。見ていることを悟られたくないから、なんでもない風な顔を装ってすれ違う。それから気づかれないように振り返り、後姿をしばし眺める。 あの人の左手の薬指には指輪がある。それが…

『2月に咲く花と歌声』

2月1日 無趣味、無感動、無関心、無口。この世界に適応できません。 2月2日 太宰治になりたい。 2月3日 本当に僕は醜い。死ねば美しくなれる。死ぬことでしか美しくなれない。 2月4日 さようなら。 2月5日 生まれたことがそもそもの間違い。 2月…

『空へ』

そう遠くはない、向こうの電線の上でカラスが鳴く。私と同じカラスなのに言葉が違っているから、何を言っているのかはわからない。あちらは群れて、どうやらおもしろい話をしているようで、笑い声が聞こえてくる。 いつからかは覚えていないが、私は彼らと違…

『日傘』

この場所でハーブティーを飲みながら目を閉じると思い浮かぶ。 黒いレースの日傘を差したあなたが遠くからゆっくりこちらに向かって来るのを。フリルのあしらわれた白いブラウスに、プリーツが細かく入った黒いスカート。首元には小さなうさぎのネックレス。…

『ヴィオロン』

お互い無口なもの同士のデートなら、この店がきっといい。沈黙が苦にならないから。僕にはその良さがわからないが、古いオーディオ機器が主として鎮座するミニ・ホールと言える名曲喫茶に居る。 扉を開けて入ったときに流れていた軽快なピアノ曲のせいか、最…

「葉桜」

好きな人がいるんです。 でも、その人には立派な恋人がいて、いえ、その人の口から聞いた限りなので、相手がどのような人柄なのか存じませんけれども、とにかく私の付け入る隙がないようなのは確かです。 前から密かに思いをよせていて、遠くからそっと見つ…

wednesday

休みの日ともなれば大勢の人が絶え間無く押し寄せるのに、水曜日だからガラガラに空いているショッピングセンターの立体駐車場の屋上で、すっかり暗くなってしまった街並みをぼんやりと眺めながら、「もうすぐ、あのバイパスが開通してうるさくなるだろうけ…

「故郷」(“VINNYBEACH 〜架空の海岸〜”に寄せて)

少年は旅に出て以来、初めて故郷に帰ってきた。そこはどこでもない場所。地図の上には存在しない。 少年はこれまでの旅を振り返るようにして、毎日歌を唄った。昔の曲だったり、その時につくった曲だったり。まだ上手く弾けないギターを連れ、あるときは海岸…

「消失」

山手線の内回り。僕はシートの端に座っていた。 ふと、向かいの女性にじいっと見つめられているのに気づく。その視線は好奇のものでもなく、不審者をみるものでもなく、何かを確かめているような。 驚きを隠そうと努めながら、その女性の目を見つめ返した。…

「一日目・前編」

静かな音楽とやさしい香りが流れてくる落ち着いた待合室だった。初めての病院。初めての科。やがて与えられた番号で呼ばれた。診察室に入る。 そこで話したことは忘れてしまった。メモを手にしていったのだが、何か僕の気持ちが邪魔して、書き出しておいたこ…