『ヴィオロン』

 お互い無口なもの同士のデートなら、この店がきっといい。沈黙が苦にならないから。僕にはその良さがわからないが、古いオーディオ機器が主として鎮座するミニ・ホールと言える名曲喫茶に居る。
 扉を開けて入ったときに流れていた軽快なピアノ曲のせいか、最初は落ち着かなかったが、ゆっくり確かめるようにして店内を見回すと、古びたしかし品のよい置物、椅子、机、ランプなどが並ぶのを味わえて、次第に心安らいでいった。
 そして、持ってきた小説――このお店が舞台になっている――を祈るようにして読む。ここに居ます、と。
 読み終えてから、次は来る途中に手に入れた『パンドラの匣』にしようかと思ったが、なぜか手が動かなかった。ここは入れる場所ではなく、出す場所なのかもしれない。だから、こうやって言葉を紡ぎたくなるのだろう。
 そうしている間に、次々と客はやってくる。年輩のオーディオ好きが来るものだとばかり思っていたが、若い人がほとんどだ。 「クンパルシータ」のような退廃的な空間とも、「宵待草」の耽美な空間とも違う、表し難い何とも音楽的な空間に人々が納まっている。目を閉じると、何時間でも居たいという想いがこみ上がってきた。
 しばしの沈黙。レコードが替えられた。今度はオーケストラの曲。こんなときに自分の教養の無さを惨めに思う。誰それの何という曲と言い当てられないまでも、アリアだとかカノンだとかそういった水準で表現できたらと思う。別段、音楽の学習などしないくせに。花だって同じだ。花の名を覚えられたらいいなと思いつつ、図鑑などには目を通さず、道端に咲く花に目を合わせては「君の名は何と言うんです」と問うだけ。
 
 「ヴィオロン」。つまり、バイオリン。それがこの店の名。あちらこちらにバイオリンの飾りがある。美しい。この空間を独り占めできたなら……。普段は清春しか耳に合わず、好きではない音楽が聞こえてくれば途端に落ち着かなくてしようのなくなるこの僕が、この店で名も知らないクラシックを聴きながら、そう思うのだ。
 少し冷えてきた。二杯目の紅茶はブランデー入りにする。帰ったらシャツにアイロンをかけるのかと思うと、ますますここを離れたくなくなった。アイロンがけは嫌いじゃない。あの皺のすっと伸びていくのは心地がよい。しかし、それではここに居たい気持ちには勝てやしない。
 この一週間を振り返る。体調が悪くならない日はなかったが、その時間は格段に減った。悶え苦しむ時間が少なくなると、いろいろやる気がわいてくる。手紙を書いた。電話をした。部屋のインテリアについて思案した。一月前はそんな余裕すらなかった。ここに来ると決めたのも昨日の夜のことだ。そして、ここに来てまた回復していくのを感じている。
 また、来ます。必ず。