「葉桜」

 好きな人がいるんです。
 でも、その人には立派な恋人がいて、いえ、その人の口から聞いた限りなので、相手がどのような人柄なのか存じませんけれども、とにかく私の付け入る隙がないようなのは確かです。
 前から密かに思いをよせていて、遠くからそっと見つめていた……そういった淡い感じのものではなく、もうこの人しかいない、他に道などありはしない、言われたほうからすれば、血の気が引くような昂ぶった想いですから、そう、狂気。これは正気の沙汰ではありません。現にもう思い詰めて、ほら、彫刻刀まで手にしています。
 一人で暮らしていますが、リンゴの皮むきすら出来ない不器用者で、それで料理をうまくなろうなどと思わなかったことから、家には包丁を置いていません。だから、趣味にも使わないし、思い出があるわけでもないのに捨て切れなかった中学校時代の彫刻刀をひっぱりだしてきて、息巻いているわけです。きっと殺してやる。
 ――憎いのは誰だ。好きな人の恋人か。
 違います。彼女を殺してしまっては、きっと好きな人は生きてゆけなくなるでしょう。おろおろして、涙も枯れるまで泣き、何も口にできずにいつかぱたりと死んでしまうに違いありません。他のどの人よりもずっと繊細にできているのです。お可哀相に。
 ――好きな人が憎いのか。
 そうです。好きな人、あなたが彼女を好きにならなければ、よかった。何とも汚い言葉で申し訳ありませんが、あんな女はあなたを駄目にするばかりです。どうして気づかないのですか。そうですか。もう時間がありません。さようなら。憎い、憎くてしようのないあなたを好きになった私が、一番の過ちなのです。だから、私がこうして死ぬんです。見ていてください。